黒いレザージャケットをまとうライダー

街中でのUターンに手首が悲鳴を上げ、長時間のライドで腰が痛む。

旧車のカフェレーサーを所有する誰もが、一度はその窮屈なライディングポジションに疲弊し、手放す理由を探したことがあるかもしれない。

それでもなお、私たちがセパハンとバックステップの痛みを伴うスタイルを愛してやまない理由について、静かに考察してみたい。

トップブリッジ下にマウントされたハンドル、低く身を潜めて風と溶け合う

フロントフォークを挟み込むようにマウントされるセパレートハンドル、通称セパハン。

トップブリッジの下へと極端に下げられたその鉄の棒を握りしめるとき、私たちの視線は日常ではあり得ないほど低く設定される。

タンクに胸を擦り付けるように上体を伏せると、風の抵抗は消え去り、まるで自分が機械の部品の一部になったかのような錯覚に陥る。

ふとショーウィンドウに目をやれば、そこに映るのは、無駄な抵抗を削ぎ落として風と一体化しようとする有機的なシルエットだ。

街のノイズが遠のき、フロントタイヤがアスファルトを掴む感触だけが、両腕を通じてダイレクトに伝わってくる。

その生々しいインフォメーションこそが、低く構えることの本当の意味なのかもしれない。

後方へ引かれたステップが要求する、内燃機関との濃密な対話

ハンドルが下がれば、当然ながら足の位置も変えなければ物理的なバランスが破綻してしまう。

そこで必要になるのが、純正よりも後方、そして上方へ足を導くバックステップという存在だ。

ステップボードに足を乗せ、膝で冷たい金属のタンクを強く挟み込む。

その瞬間、股下で爆発を繰り返すエンジンの鼓動が、骨伝導のように全身へと響き渡る。

足首をわずかに動かして硬いシフトペダルを掻き上げるときの、あの機械的な手応え。

それは単なる移動手段としての運転ではなく、気難しい生き物を手懐けるような濃密な対話の時間である。

この確かな操作感があるからこそ、私たちはコーナーの奥深くへと車体を倒し込んでいく恐怖を、悦びへと変換できるのだ。

身体の痛みを代償にして得る、理屈を超えた造形への執着

冷静に考えれば、これほど不条理な乗り物はないだろう。

首は常に上を向かざるを得ず、手首には自らの体重が重くのしかかる。

休日の早朝、美しい朝靄のなかへ走り出そうとしても、その苦痛を想像してカバーをめくる手が止まってしまう日もあるだろう。

それは、タイトなレザージャケットや、木型から作られた硬い革靴を身に纏う時の覚悟に似ている。

決して快適ではない。
それでも私たちがこのスタイルを選んでしまうのは、駐車場に停めた自らの愛車を振り返ったとき、そのストイックな造形美に理屈を超えて魂を奪われてしまうからだ。

身体の痛みを代償にしてでも手に入れたい美しさが、確かにそこにある。